共有

第六話 楠木家の秘密

作者: 雫石しま
last update 最終更新日: 2025-10-28 03:00:11

子猫のように怯える七海を宥めようと、健吾がエプロンを無造作に外し、その華奢な身体を優しく抱きしめた。泡のついた手が彼女の背をそっと撫で、まるで壊れ物を扱うような慎重さだった。私はその抱擁を目の当たりにし、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。胸の奥で何かが音を立てて砕け、喉に熱い塊が詰まる。

「大丈夫だ」と健吾の低く落ち着いた声が響き、七海が「だって……!」と震える声で縋るのが聞こえた。

その親密な光景は、私の三年間の結婚生活を一瞬で灰に変えた。ショルダーバッグの中で、登記簿謄本の紙が私の決意を静かに支えているのに、足元が揺らぐ。健吾はこのマンションを売り払っていたのだから、計画的な彼のことだ、次の住まいを七海のためにすでに決めているに違いない。私の知らぬ間に、彼の心は完全に彼女に奪われていたのだ。リビングの空気が重く、テレビの音が遠くで虚しく響く。私は洗面所の鏡に映る自分の顔を見た。そこには、怒りと悲しみに歪んだ女がいたが、その瞳にはまだ消えぬ闘志が宿っていた。「この家は私のものよ」と、声を絞り出すように呟いた。

「七海、祖父さんの家に行こう」と健吾が静かに言うと、彼女は息を止めた。黒曜石のような瞳を見開き、まるで恐怖に捕らわれた小動物のように首を激しく振った。

お祖父様は脚の具合が悪く、車椅子の生活を余儀なくされている。私が結婚の報告に伺って以来、彼とは顔を合わせていない。厳格で楠木家の名誉を何より重んじる彼が、義理の兄と妹が恋仲だと知ったらどうなるか……想像するだけで背筋が冷える。

義理の兄?

義理の妹?

そこで私は息を呑んだ。

母親は違えど父親は同じ......この二人は、連れ子同士ではない......それでは近親相姦ではないのか?

健吾と七海は腹違いの兄妹だ。健吾の母は正妻として楠木家に君臨したが、七海は健吾の父が生涯忘れられなかった女性が身籠もった子だった。その秘密は、楠木家の屋敷の奥深くにひっそりと隠されてきた。

「お祖父様は嫌! お義兄ちゃんと別れなさいって言う!」と七海が叫び、健吾の腕に縋りつく。彼女の声は恐怖と反抗で震えていた。

健吾の両親は数年前の交通事故で他界し、彼は若くして楠木グループのCEOの座に就いた。その重圧の中で、七海との禁断の絆が彼の心の支えだったのかもしれない。だが、私にはそんな言い訳はどうでもよかった。

健吾と七海の関係に薄っすら気付いているのは私と七海の母親だけだ。彼女は楠木家の財産を目当てに口を噤み、微笑みを浮かべてこの不穏な均衡を保っている。リビングの空気が凍りつき、七海のすすり泣きが響く中、私は冷たく微笑んだ。「お祖父様に話すのが嫌なら、今すぐここから出て行きなさい」と、声に力を込めた。健吾の視線が私を刺すが、私は目を逸らさなかった。すると彼はにじり寄った。

「祖父さんがお前の言葉と、俺の言葉、どちらを信じると思う?」

健吾の声は低く、鋭い刃のように私の胸を刺した。彼の瞳には、楠木グループのCEOとしての冷徹な自信と、七海を守る決意が宿っていた。確かにそうだ。長年可愛がってきた孫と、数年前に嫁いできた女の言うこと、どちらを信じるか? お祖父様の厳格な顔が脳裏に浮かび、その答えはあまりにも明白だった。

私は唇を噛み、ショルダーバッグの中で登記簿謄本を握りしめた。だが、その紙の重みすら、今は心許なく感じられた。

それに私たちの結婚は、愛だけで結ばれたものではなかった。両家の思惑が絡む、冷たい契約の産物だった。楠木グループと私の実家、小松川コーポレーションの利害が一致した結果、私は健吾の妻となった。あの夜、楠木の父親に唆され、ほのかな野心と不安を抱えながら健吾のベッドに忍び込んだことを思い出す。一夜の関係……彼の寝息を聞きながら、私は自分の選択が正しかったのかと自問した。

だが、今、七海のすすり泣きと健吾の冷ややかな視線を前に、過去の決断が虚しく響く。リビングの空気は凍りつき、テレビの音が遠くで無意味に流れる。私は目を閉じ、深く息を吸った。「出て行って……今すぐにでも……」と、声を絞り出す。健吾の眉がわずかに動き、七海が彼の腕の中で身を縮こませる。このマンションは、私が手に入れた唯一の確かなものだ。どんなに彼が祖父を盾にしても、私は退かない。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです   46*終幕

    「結城七海が供述を始めたそうだよ」 相馬がティーポットに湯を注ぐとハーブティーの香りが穏やかにリビングを満たした。事情聴取の一部を入手した彼は、マンションのベランダの椅子で微睡む私に紙の束をそっと手渡した。それは薄っぺらで七海の人生を具現化したようだった。七海の過去は、まるで彼女自身が描いた偽りの肖像画のように、表層だけが美しく塗り固められていた。 本名・結城七海。 母である結城七恵は健吾の父の愛人で、楠木家に「遠縁の娘」として七海を養子として迎えさせた。七恵は、表向きは「未亡人の叔母」として楠木家に寄り添いながら、裏では愛人契約の金と脅しで生活を支えていた。七海は物心ついたときから「楠木家の可愛い義妹」という仮面を被ることを強制され、健吾を「お義兄ちゃん」と呼ぶことを刷り込まれた。 彼女は名門私立に通いながら、母の指示で「楠木家の令嬢」として振る舞う。成績は中の上だが、容姿と「楠木」という名前で常に注目され、嫉妬と崇拝の的だった。裏では母が「健吾を誘惑しろ」と囁き続け、七海は無意識のうちにそれを「愛」だと信じ込むようになる。高校三年のとき、初めて健吾と肉体関係を持った夜、母は「これで一生安泰よ」と微笑んだという。 慶應義塾大学に内部進学後、すぐに休学届を出し、オックスフォード大学へ留学(表向きは楠木グループの奨学金)。実際は健吾が私財を流用して作った「七海専用基金」で、授業料・生活費・高級ブランド品まですべて賄われていた。 論文盗用は母の指示。七恵は「学位なんて飾りだから、適当にやっておきなさい」と言い、七海は他人の論文を切り貼りして提出。今回、七海の論文再検証にあたり盗用が発覚した。彼女は「母がそうしろと言った」と泣きながら白状したが、すでに遅かった。 七海は「愛されていたい」という欲求だけを純粋に抱えながら、母に操られ、健吾に依存し、私を徹底的に敵視していた。 彼女にとって「楠木」という名前は、呪いでもあり、唯一の救いでもあった。だからこそ、すべてが崩れたとき、七海にはもう逃げ場がなかった。殺人犯の娘、実の兄との近親相姦、虚偽の妊娠、学位剥奪……彼女が最後に呟いた言葉は、警察の取調室で録音されている。「……お義兄ちゃん、助けて……」その声は、もう誰にも届かなかった。 「気の毒ね……」 私は穏やかな陽光がレースのカーテンを

  • 拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです   45*復讐劇の幕が降りる時

    その頃、警察では内密に捜査が行われていた。依願退職した元刑事・田辺が鑑識に持ち込んだ殺人報酬金「800万」のメモと、楠木家の香典帳「8」の筆記が同一と判明。丸を二つダルマのように重ねた「八」の主は、七海の母親・結城七恵だった。祖父の形見分けの日、私も香典帳に数字を書き、周囲の親戚が確認していた。私は警察署の捜査第一課と書かれた室名札の小部屋に通され、埃っぽいパイプ椅子に座らされた。「この度はご足労いただき……ありがとうございます」軽く会釈した彼の声は低く、嗄れていた。強面の警察官がバインダーを持ち、軋む音を立てゆっくりとパイプ椅子に腰掛ける。女性警察官がノートパソコンを開き、乾いた音で一字一句確実にキーボードに打ち込む。私は内容を知らされぬまま事情聴取を受けたが、目的は明らかだった。結城七恵に殺人容疑がかけられていた。警察官は私が結城七恵の名前を呟くのを今か、今かと待っている。健吾の次は七海だ……母親が殺人を依頼し、愛人を殺害した犯人と知れれば、七海は一生その事実を背負う。私は悲哀の義理の姉を演じ、白いハンカチを握り「……この字は……結城七恵さんの字で間違いありません」と俯く。その言葉に警察官は合図し、数人が暗い廊下の奥へ足早に消えた。「八」の筆跡、お祖父様が握っていた赤い糸、その証拠が七海の黒曜石の瞳を奈落の底に突き落とす。健吾の両親の自動車事故はブレーキ不具合によるも

  • 拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです   44*ロンギヌスの槍

    週刊誌は、楠木家の奥深くに隠された闇を容赦なく白日の下に晒す。私を裏切り苦しめた健吾と七海に、ロンギヌスの槍が次々と突き刺さる。倒れ始めたドミノはもう止まらない。私はジョーカーの爆弾を眺め、相馬の民法に守られ高みの見物だ。シワのついたスーツで謝罪する惨めな健吾、青ざめた七海の黒曜石の瞳、全てが私の手中にある。膨らみ始めた下腹を撫で、「あなたは私と幸せになるの」と子供に優しく語りかける。相馬の銀縁眼鏡の奥の微笑みが、復讐に燃える私を優しい光で救う。週刊誌とワイドショーは健吾と七海の関係を最も簡単に暴いた。「二人は実の兄妹だった!」#家政婦は見た #実の兄 #近親相姦……週刊誌の見出しは「楠木グループCEOの禁断の恋」と煽り、インターネットから瞬く間に世間に広まる。連日押し寄せる報道陣、家政婦のいない屋敷で健吾と七海は途方に暮れる。客間に墓石のように佇む、マンションから運び出した家財道具を眺め、健吾はこの長年の恋に価値があったのか自問自答する。ジョーカーが次の爆弾を落とそうと浮き足あっていたが、残念ながらその必要はなかった。彼はマンションのリビングでスマートフォンを弄りながらため息をつく。「俺の出る幕ないじゃん」私は微笑みながらパンケーキを焼いた。甘い香りが空間を満たした。「ジョーカー、ジャムがいい?スクランブルエッグがいい?」と問う。彼は「……うーん」と悩みスクランブルエッグを選んだ。陽光が差し込みカーテンの影を作った。観葉植物に埃がキラキラと舞う。「あ、もうそろそろじゃん」穏やかな時間を切り取るようにジョーカーはテレビのリモコンを握った。

  • 拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです   43*視聴率が暴く事実

    ジョーカーはYouTubeアカウントを作成し、次の爆弾を落とした。動画は私が録画した、健吾と七海が祖父の事故について話す薄暗い応接間……顔は見えないが、エミール・ガレの百合ランプが仄かに灯り、罪を暴く。健吾の声は震え、祖父の手に握られた赤い糸が何を意味するのか、七海に多少の疑念を抱く。七海の嘘と自身の盲信の中で揺れるその声が、ネットに拡散される。「私……お祖父様を助けようとして」「そうなのか、大丈夫だ……七海は俺が守る」「お義兄ちゃん」と、白々しい七海の涙声が抱き合った背中から漏れる。薄暗い応接間、エミール・ガレの百合のランプが仄かに灯る中、健吾の盲信が揺れる。「茶番だわ……」と、私は呆れて物も言えない。ジョーカーのYouTube動画は、ワイドショーと週刊誌の恰好の餌食となり、視聴率と売り上げを貪欲に喰らう。そして意図せず、意外な追い風が吹いた。「事件の裏、暴きます! 突撃インタビュー!」と称するユーチューバーが、家政婦のアパートのドアを激しく叩いた。「冴子様! どうしましょう! インタビューに答えないと……帰らないと……!」と、家政婦が声を顰めて電話をかけてきた。「……そうなの」と、私は静かに返す。彼らは報道番組のクルーより早く、楠木家に長年仕える家政婦に注目し、彼女のアパートの前に居座った。

  • 拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです   42*謝罪会見

    私と相馬が楠木グループ本社で、健吾のイギリス支社視察の領収書や明細書の「開示請求」を確認している頃、ジョーカーは匿名のメールアドレスでイギリスに一通のメールを送信していた。宛先は「オックスフォード大学奨学金委員会」……七海の奨学金が日本の楠木グループの不正資金を利用しているのではないか、至急調査して欲しいという内容だった。蜂の巣を突いたような騒動が起き、委員会は早速調査に乗り出す。そしてもう一通、ジョーカーの匿名メールは七海のオックスフォード大学での論文に不正があるのではないかというリークだった。教授たちは躍起になり、七海の論文を隅々まで調べ上げた。すると、過去の論文からの盗用が次々と判明し、七海のオックスフォードでの学位は停止された。三年間の留学生活は無に帰し、彼女の黒曜石の瞳に輝いた栄光は闇に消える。オックスフォード大学による調査の結果、七海の奨学金は楠木グループの不正資金が利用されていた。相馬の「不正資金の開示請求」は漣のように広がり、楠木グループの終焉を暗示する。健吾の隠し資産が次々と判明し、使途不明金が白日の下に晒される。健吾のブラックカードは七海の為に湯水のように使われていた。会議室の重苦しい空気、健吾の動揺、七海の学位停止……全てが私の手中に。相馬とジョーカーの活躍が背を押し、インターネットは炎上の嵐、イギリス旅行の逢瀬が全てを崩してゆく。冷ややかな笑いが止まらない。ついに楠木グループの緊急株式総会が開催された。

  • 拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです   41*不貞の開示請求

    「開示請求書」を楠木グループに提出してから数日後、渋々といった様子でそれは受理された。私は相馬と連れ立ち、楠木グループ本社のエントランスに立っていた。大理石のフロアは隅々まで磨かれ、ガラス張りの壁が冷たく光る……無機質な雰囲気は健吾の傲慢な気質を顕にしていた。受付では、CEOの妻の来社とあって、いつもより背筋が伸びる。「二十四階の第一会議室までお越しください」と、受付嬢は慌ててエレベーターのボタンを押し、恭しくお辞儀で私たちを見送った。エレベーターの鏡に映る私の姿は毅然と、そして冷たい笑みを浮かべていた。隣に立つ相馬は獲物を仕留めるその瞬間に、手ぐすねを引いていた。エレベーターの機械音が低く響き、箱は私たちを乗せて上昇した。勝利への第一歩のようで、胸が喜びで騒めく。扉が開くと、健吾の男性秘書が恭しくお辞儀をする。黒いスーツに臙脂色のネクタイ、顔色は冴えなかった。「……奥様、お久しぶりです」と声を絞り出す。「お元気そうで何よりだわ、いつも楠木が世話をかけて……ごめんなさいね」と、私は悲哀の妻を演じ、微笑みを浮かべる。彼はもう一度深くお辞儀し、動揺を隠せない様子だった。今回の「開示請求」で、「管理不行き届き」の責任を負わされたのだろう。健吾と七海のイギリス旅行の逢瀬……全てがこの会議室で暴かれる。秘書に案内され、会議室のドア前に立った。私は一旦立ち止まり、大きく息を吸う。「緊張してる?」と相馬が小声で囁く。「ちょっとね……」と答え、握り拳を作り、両足に力を込めて床を踏み締める。ノックが三回、「……どうぞ」と、苦々しい返事

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status